僧侶になる道を選んでからは毎日お経を唱えたり声明の練習をしたりしていますが、何のために唱えたり練習しているのか?私なりに自分自身を省みて考えてみました。
「お経」というと一般的な日本人としては法事であったりお葬式であったりお仏壇の前で拝んだりといった、亡くなられた方への鎮魂の意味で唱えられているということと思われます。果たしてそうなのでしょうか?
元々、お経というのはお釈迦様自体が書き記されたものではなくお釈迦様の説かれた教えをお弟子さんが記録したものです。「多聞第一」といわれた阿難というお弟子さんが「私はこのように聞きました」と語り、他の500人のお弟子さんが間違いないと認めたものがお経になりました。これはいわゆる「仏典結集」と言われるものです。
いったい何をお経にしたのかというと、お釈迦様の悟りの内容であり尊い法であります。「法」とはいつでもどこでも変わらない不変の真理で、私たちすべての人を永遠に変わらない幸せに導く力があります。これは「仏法」といわれるものです。この仏法の教えが仏教であり、それが書き記されているのが「お経」なのです。お釈迦様は今を生きている人のために幸せになるための道を教えられているのです。
そしてお大師様の言葉通り、仏様の姿は見えないけれど、その人の心のありよう次第でいろいろな姿で現れて下さいます。私も意味の解らないお経の言葉をただ一生懸命に唱えていましたが、読んでいると不思議に心が落ち着いていました。それはお経の言葉一文字一文字に意味があって、それを不思議に体感していたからに他ならないです。いわゆる、今を生きている自分自身の為に唱えていたということです。声明も節がついているかいないかの違いだけで、やはりお経の言葉です。
最初に挙げたお葬式や法事や仏壇の前で拝むお経は亡くなられた故人の追悼を祈ると共に、今を生きている自分自身の為に唱えているということです。精一杯みんな今を一生懸命に生きて幸せになる道を開いていってるよ、という報告式みたいなものと言い替えても良いのではないかと思えます。「孫が大学に受かったよ」とか「娘が結婚したよ」とか、思わずご先祖様に報告したくなってしまいます。
お経をあげるということはお釈迦さまの尊い教えを自分自身にも他人にも聞かせていくご縁であってそれを心得て唱え、自身の為、他人の為にと唱えていきたいものです。
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