お経の起源·成り立ち 2-1(全2回)

現在世界中で読まれているお経は元々はお釈迦様が生前に弟子たちを引き連れておこなっていた説法を編纂したものです。
 
お釈迦様の死後、その教えはもっぱら記憶や暗唱を頼りとして受け継がれたため、その散逸を防ぎ、異説の生じることを防ぐために弟子たちが各自の聞いていた内容にもとづく資料を持ち寄って編纂がなされました。
その編纂会議のことを「結集(けつじゅう)」といいます。
結集は現在に至るまで何度も行われております。
 
第一結集にはお釈迦様の十大弟子と500人の羅漢(阿羅漢)が集まり、90日間にわたってお互いに聞いていた内容の確認をしていきました。
このときは、摩訶迦葉(マハーカーシャパ)が座長となり、阿難(アーナンダ)と優波離(ウパーリ)が、それぞれ 経(法)と律の編纂責任者となりました。
摩訶迦葉は仏教教団におけるお釈迦様の後継(仏教第二祖)とされ、初めての結集の座長を務めました。頭陀第一といわれ、衣食住にとらわれず、清貧の修行を行ったといわれています。
阿難(阿難陀)はお釈迦様の侍者として常に説法を聴いていたことから多聞第一(たもんだいいち)と言われていました。
優波離は元・理髪師であり、直弟子の中でも戒律に最も精通していたことから持律第一と言われていました。
また、文殊菩薩は十大弟子とも親しく、この結集に参加したとの伝承があります。
 
 
第一結集(お釈迦様の入滅)から100年後、律蔵に関して他ならぬ出家の弟子たちから異解・邪見が出てきました。この事件を重く見て、聖典の乱れを正すため、ヴェーサーリに七百人もの長老たちが集まり、聖典の結集を行いました。これが第二結集です。新たに経や律を作ったのではなく、経も律も決して変えないことを、ここで再確認したのです。
しかしこの第二結集を機に、戒律や経典を厳格に保持する上座部(小乗部)と戒律などを自由に改変する傾向にあった大乗部の二派に仏教教団が大きく分裂しました。戒律を一度変えてしまった比丘たちは、元の教えにはもう戻りませんでした。

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